「有為自然」未来の人類を救う農業とは。


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「自然農法や自然栽培(無肥料)の野菜は、小さくて形が悪くて当たり前。」

それが世間の一般的な認識。でも、それって誰も証明したことがないことだったりします。

僕は、それを当たり前にせず、慣行並かそれ以上の収量で、見た目もきれいな野菜が無施肥無投薬でできると信じながら、日々畑に向かっています。

そうしないと、未来の人類が、子どもたちの世代が救われない気がするから。

化石燃料ほど持続不可能で高リスクなものはありません。化学肥料はすでに高騰し始めて、今後の国際情勢や大規模天災などマクロ要因によっては、それらが入手不可能になる可能性も決して低くはありません。ましてや日本は、食料もエネルギーも、多くを輸入に頼っている状況です。

歴史的に元寇など除いて他国からの侵略がほぼなく、近代以降も沖縄を除いて外国との本土戦がなかった島国の日本。実際にコトが起きない限り危機感を感じられない国民性が育まれてしまったのかもしれません。

もちろん、そうした国民性のなかでも、将来起こりうるリスクをしっかり見据えて備えている方も多くいらっしゃいます。この記事を読んでくださっている方も、きっとそうだと思います。

僕自身は、食べ物に困った経験は過去にありません。「飢餓」というものを知りません。書籍や映像などを通して、ただ想像することしかできません。でも、なんとなくではありますが、戦後などに飢餓に直面していた人たちの話などを聞いていると、「食べるものがない」ということほど、人間として惨めで、悲しく、残酷なことはないのではないかと感じています。

地球上には数え切れないほどの地球規模的問題郡がありますが、紛争や戦争といった、食をめぐる争いがいつの時代にも絶えません。貧困者による犯罪もそうです。ほとんどの「暴力」の根底には「食」の問題があるのではないかとさえ思えてきます。

世界人口は増え続ける一方で、今世紀中頃には100億人に届くほどに増加すると言われています。現在、経済的発展に遅れを見せているサハラ以南のアフリカや南・東南アジアで経済発展が進むことによって、特にこれらの地域で人口が増え続ける予測のようです。

一方で化学肥料(化石燃料)が底を突き、世界規模で入手困難となれば、自ずと有機質肥料や堆肥にシフトする流れが生まれると思いますが、現状世界で消費されている化学肥料を代替する量の有機質肥料が存在するとは考えられません。

米ぬかが採れる日本はともかく、世界の多くの地域では堆肥を作るのに畜糞が必要となり、そのために家畜をさらに増やし続けるのか、ということになります。

家畜を増やせば、生き物であることから当然飼料が必要となり、そのために、本来人間が食べる食料を生産するために使えた圃場を飼料生産に使うという本末転倒に陥ります。

また、人間が植物から得られるエネルギーと同等のエネルギーを肉から得ようとすれば、その約10倍の植物が必要になるとも言われており、明らかな無駄です。

牛などであればゲップによって、温室効果が非常に高いメタンが大気中に放出されるという問題もあります。

作物も植物という生き物ですので、当然窒素を始めとした養分を必要とするのは言うまでもありません。ただ、養分が必要だから、必ず「肥料」でなければならない、ということにはなりません。

土壌中には、非常に多様な微生物が無数に存在しており、現代科学でもそのほんの一部のことしか分かっていません。

その土壌微生物のなかには、大気中の窒素を固定して、植物の根に供給するような微生物がいます。窒素固定菌と言ったりしますが、マメ科植物と根で共生すると言われる根粒菌だけでなく、根に棲み着かなくても、土壌中を遊離することのできる窒素固定菌も多く確認されています。

従来の無施肥栽培では、できるだけ「人為」を廃して、自然のままに放置することを是としているような側面があると思いますが、土にも特になにも投入しないため、土壌微生物は増えにくく、それらと共生して養分のやり取りをする植物も大きくはなりません。理の当然です。

そうではなく、土壌微生物にとって栄養になる食事(生の炭素有機物/落葉など)を積極的に土に入れてあげて、土壌微生物の土壌中の生体総量そのものを上げていくことをしなければ、収量をあげて人類を養っていくことは困難です。

道楽や趣味でやるのであれば、もちろん従来の無施肥栽培で問題ないと思いますが、未来の多くの、生身の人間の生死が関わる問題となれば、人類を養う役割のある職業農家が、ただ「無為自然!」とばかり唱えているだけでは、やや残念な気がしてしまいます。

いま、「施肥」から「無施肥」へ。「無為の無施肥」から「有為の無施肥(肥料でなく微生物の餌をやる)」へのパラダイムシフトが求められていると思います。

人間と自然(nature)の対立的二元論ではなく、人間が「自然(じねん)」の一部と考えるなら、人間が「自然」として何かを為すことは、決して悪いことではありません。反自然でなければ、一見不自然にとれるような事柄も、実は自然の一部なのかもしれません。やはり、自然の枠外に人間を置くから、「無為」という発想になってしまうのではないでしょうか。

世界人口を抑制していくことも当然重要ですが、それと並行して、本当に持続可能な農業とはどんな農業なのか、真剣に考える時は、もう待ったなしの段階に来ています。

あえて僕は、「有為自然!」と叫びたいと思います。

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